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2014-03-02 10:09 | カテゴリ:未分類
 梅の紅が朝みるとさらに小豆近くにふくらんできた。昨晩は、なぜか急に冷えこんでいた。
 朝は公舎。遅発性アレルギーのことをかぶれということを教えらる。
 提案理由まとめ。
 昼ごろ家を出ての車中、空がもやっているのは黄砂の初波か。大学の二次試験初日が終ったのか、昼の通りに高校生の集団。
 エネルギー原子力関係の閣僚会議の決定があったので、ブラ下り取材あり。方向は昨年末の計画を大きく変るものではない。
 寺島実郎理事長(日本総合研究所)、今回の幸福度調査について懇談のため来訪、メディア取材もあり。
 望月元行政局長来庁。
 寺島実郎氏の講演会をきく(北陸銀行主催)。マネーゲームと実物経済を分け、後者に力を。新しい産業パラダイムを作り積極投資。そののち懇談。
 空を見上げても、よい星はもうみえず。


 蒲生がもう君平くんぺいの師として知られている鈴木石橋せっきょうが、1815(文化12)年のきょう62歳を以て没。学者で篤行家で、そして真成の教育者ともいうべき人であった。下野の鹿沼の農家に生れ、昌平校に学び、郷里に帰って家塾を開いて諸生を教えたが、深く風俗の頽廃を憂え、善を勧め悪を懲し、困窮せるものには、米銭衣服を施し、家を持たせ仕事を与え、禄を求めさせた。この石橋に依って生を営む者五百余人の多きに達したという。そのほか道を開き橋を掛け、堕胎の悪風を強制するなど、石橋の遺した功績は大きかったという。蒲生君平(1768-1813)は、儒学者。同時代の林子平しへい、高山彦九郎ひこくろうと共に、「寛政の三奇人」の一人。
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2014-03-02 10:11 | カテゴリ:未分類
 好天なるも、午前中にPM2.5の平均濃度が基準を上回り、昼に注意報をはじめて出す。昨日もよく似た状態だったが、気象台からは乾燥した日にできる「煙霧」ということであったが、これは、原因を問わずに現象のみを表わす気象の用語らしい。
 11時から2月議会開会。
 所信表明が文字量が多くなり、正午をやや過ぎる。
 連合福井からの要請について、子育てモデル企業について。
 午後は、人口減少(進学による純流出)について。データも分析も中途では名案には至らず。
 めずらしく定時の帰宅。
 曇って来て雨になる気配だが、夕方はまだ明るく、外に干した物を打払って取り入れる。顔調はよくなる。


 北海の探検家、間宮林蔵が1844(弘化元)年のきょう、深川蛤町の僑居きょうきょ(仮ずまい)に65歳を以て没。
 その晩年は、器材を発揚するの機会もなく、幕府の隠密などを勤めた。彼の如き偉材にして、充分活動の天地を得られなかったには、かえすがえすも遺憾なことだった(と銑三記す)。
2014-03-05 09:28 | カテゴリ:未分類
 朝から雨。ために空気はよくなる。
 あすの代表質問打合せ、ほぼ夕方まで行う。
 日曜日に当選の河合新永平寺町長が、鈴木県議とともにあいさつ来訪。
 ブータンの関連事業の促進方、東京に電話。
 今日、PT会議あり。7月までに新幹線工期の短縮決定との自らの方針、年末におくれる。たよりのないことである。


 高崎正風まさかぜ、1912(明治45)年のきょう77歳を以て逝く。旧薩摩藩士、島津家の「おゆら騒動」で藩籍を剥がれ、大島に流された。島にあること三年、つぶさに辛酸を嘗めて書を読んだ。釈されて帰るや、八田知紀とものりに就いて歌道を修める。幕末の多事の際は、西郷、大久保等と藩命を帯び国事に奔走。維新後、官途に就き明治九年には御歌掛、同十九年には御歌掛長を命ぜられる。和歌を以て陛下に親炙し奉り、一方ならぬ御寵眷ちょうけん(寵愛して特別に目をかけること)を受けたことは、世の知るところである。はじめ天皇の御製は、絶対に人に洩すことを禁ぜられていた。それを日露戦争当時、国の士気を鼓舞せんため、翁決死の覚悟を以て世間に発表した。
2014-03-05 09:30 | カテゴリ:未分類
 午前中はうす晴れ。一週間ぶりに朝のたまご焼を食す。
 朝の勉強会はなぜか早く終ってしまう。
 代表質問は関孝治議員、山本正雄議員。壇上が午前中は温度が高く、上気してしまうほど、議員もやりにくそうであった。午後は直してもらう。
 昼ごろ天気よく、やはりモヤっている。
 坂井市赤十字奉仕団丸岡分団が来訪。
 県議会(新幹線議連全員)との意見交換会(昨日の工期短縮の延期に対して)。
 夕方、くもり、寒くなる。
 ビットコインの取引会社が破綻のニュース、外国人社長はあっけらかん。


 大阪の町医者、戸田旭山きょくざんが1769(明和6)年のきょう74歳を以て没。若い時槍術をよくしたが、体が小柄のため、到底第一流にまで達する見込みがないとあきらめて医を学んだ。本草に精しく治痢に長じたが、患者を診るのを日に十人と限っていた。それ以上は力が及ばないからというのであった。病気をなおしても謝礼が多い時は受けない。病人が死んでしまった時も受けない。強いて贈ればそのまま坊さんに施してしまった。かつて香川修庵しゅうあんの著「薬選」を駁して「非薬選」を著した。しかも修庵の才学を愛して、その子をして就いて学ばしめた。人々その淡懐を称したという。
2014-03-11 10:30 | カテゴリ:未分類
 くもり。庭に出て梅の枝をみると、紅の先に白いものがみられ、幾つかは蕾が開こうとしている。梅咲くを妻に言ふこと忘れけり。
 鳥の低い声でジョッ ジョゥォという方向を見ると、電柱てっぺんに止るモズのように思う、なぜなら尾を捻って動かしている。いま頃のモズは果して有りや。
 県教組定期大会に出る。先生の2割ほどはマスクをしていて顔がわからない。
 ボケと蝋梅を移植する、根づくや。
 bear、join、reduce、establish、face、choose、wish、achieve、drive、deal、place、seek、fail、serve、end、occur、kill、act、plan、eat、close、belong、represent、love、rise、prepareを読む。もうこの辺の重要度で150番に近い動詞は、辞書の4分の1頁ほどしかスペースを占めていない。loveなどは世の中に頻用されていながら、辞書上の用例はわずかであり、説明は30行もない。


 肥後熊本藩の医官、村井琴山きんざんが1815(文化12)のきょう83歳の長寿を以て没。京都で吉益よします東洞とうどうに古医方を学ぶ。東洞、琴山の器を偉なりとして、「関西の古医方は、すべて足下に一任する」といった。帰国後、講筵を開いて諸生に教授した。人間が鋭く鼻っ張りが強く、講説中、俗医を罵倒し非を斥け異を排し、仮借するところがない。誰も学説を以てその矢表に立つ者はなかったが、困ったことには患者は少しも寄って来ぬ。しかし後、その実力のあるところついには顕れずにはいない。中年におよんで琴山の医名大いに挙り、遠近治を請う者引きも切らなかった。藩内から諸国から来り学ぶ者数百人にも及んだという。
2014-03-11 10:34 | カテゴリ:未分類
 曇り、午前中読書。
 きょうは「お水送り」の日らしい。
 午後の後半、座ぶとん集会。越前匠志会の若手料理人など8人と(代表大岡亮平君)。和食に入ってくる人が少ない、技をみがく、自己努力、バンクーバーのスシ屋(女性)。
 ひのき名木一本100万円、伊勢の遷宮で1万本で100億円。おかげ横丁は赤福が起業し収支をつぐなった。
 朗読で「風立ちぬ」を聴く、風立ちぬいざ生きめやも。ひよっくり(ひょっこり)。結核と死の隣合せの時代。


 栗山大膳たいぜん、1652(承応元)年のきょう、62歳を以て奥羽盛岡の謫居たっきょに歿した。筑前黒田家の臣、暴戻ぼうれいの主忠之ただゆきへ仕え、君を諫めて君道を尽さしめんとして得ず、終にはその領土五十二万石も危からんとするを見るや、断乎たる処置に出でて、主君忠之を幕府に訴えた。幕閣の訊問の末、表面は自ら罪を得て遠謫され、その間に主君の反省を求め、社稷を全うした。大膳の如きは、真に毅然たる大丈夫ともいうべきだった。人物の鑑識について「人を見別けるにはむずかしいが、大体のところ、役に立つ人間は、六人褒め、四人誹る。十人が十人褒める者は危い。多くは佞姦の徒だ」という。(鷗外に同名の小説あり、ストーリーに不可解なところがあったと思ったのは、現代人とのモラルの違いだったか。)
2014-03-11 10:36 | カテゴリ:未分類
 うららかな晴天。足羽川の水は多く、堰の水はあふれている。
 第1回の奥越明成高校卒業式。140余りの卒業生。校長が式辞で「若者たち」を三番まで歌い拍手をうける。小生は「マダとモウ」の話し。よき言葉での答辞あり。送辞もまた学園祭がともに想い出。新しくつくられた校歌をみんなで歌う。今年は奥越は雪がきわめて少なし。最終のビデオ紹介前になぜか退席をいわれる。島根県から電話あり。
 部長会議を午後最初に行う。それから質問の打合せ。七時すぎになる。


 「大納言内府」前田利家、1599(慶長4)年のきょう齢六十三にして逝いた。豊臣派と家康との間が険悪になった時、秀吉の遺言を忘れず、「天下が騒がしければ、秀頼公のおためにならぬ故、われは内府に斬られにいくわい。内府に斬らるるは太閤に斬らるるのだと思うぞよ」と病軀を押して家康と仲直りに伏見にいった。その誠実に、優しい、美しい心の持主は、ついに託された秀頼の成人を俟たず、病のためにたおれた。人から「論語」の講を聴き、聖賢の道にも志しがあったという・・・。
2014-03-11 10:38 | カテゴリ:未分類
 晴れ、朝は芝の上に降霜をみる。
 一般質問第一日目(9議員)。政治姿勢について(?)
 明日の質問打合せ。きょうはきつい、八時まえに早目に退庁。


 一勇斎(歌川)国芳が1861(文久元)年のきょう65歳を以て世を去った。役者絵は豊国とよくに、武者絵は国芳くによしと謡われた浮世絵師。初代豊国に就いたが、元は紺屋の小僧だった。「水滸伝」の百八人の豪傑を描いて大いに当て、これが出世作となった。最初その二十余人が出来た時気がついて見ると、どれもこれもみんな同じ顔形骨格をしている。「こいつあいけねえ」とそれから彼は毎日弁当持ちで五百羅漢寺へ通っては、羅漢様をモデルに下絵を作った。伝記には、勇み肌で侠気に富み、好んで消防夫達と交ったとある。しかも、彼の手箱の中に、西洋の絵入新聞の切抜などがはいっていたという。
2014-03-11 10:41 | カテゴリ:未分類
 今日は啓蟄か。はや三十年になる。
 雨、夕方は雨が止んでいる。
 ロシア軍、ウクライナに一転介入せず、実質支配か(朝刊)。
 一般質問2日目。
 中川淳庵は田村藍水に本草学を学ぶ(18世紀半ば)、ツェンベリー(蘭医官)とも交流(西本議員質問)。
 与党PTの延引をうけ、「新幹線の整備促進を求める意見書」を、特別に本日の一般質疑後に議会が決議。あさって、菅官房長官に対し議会とともに急遽要請することとする。
 里山里海湖の研究員について。


 医界の豪傑、永富独嘯庵どくしょうあんが1766(明和3)年のきょう没。歳はまだ三十五であった。長州豊浦の人、少壮出でて京に遊び、山脇東洋について医を学んだが、酒を飲んでは議論ばかりしていて、「毒性」の渾名を負わされた。京の方言で、ならず者を指す。それをよいことにして、自ら独嘯庵を名乗った。後、海内を歴遊すること十余年、再び京都に来た時には、人物渾然として円熟し、また昔日の彼ではなかった。やがて大阪に開業し、吉益東洞と並称され、その名近隣に鳴った。或時、吐方の術を誤った患者が死んだ。彼は自分で石碑を建てて、その裏に「永富独嘯庵吐方を以て之を殺す」と刻したという。
2014-03-11 10:45 | カテゴリ:未分類
 ことしは今日が啓蟄らしい。
 くもり。白々点々と梅が咲き出す。
 冷気来る、通勤者みな寒い服装と姿。昼すぎから急に小雪が舞いはじめる。名残り雪か。
 日本ゼオン田中社長、渡辺工場長(富山)ら来訪。敦賀工業団地に50億余の投資、30人の雇用なされる。よい若い社員が集まったとのこと、ありがたい。


 栗本鋤雲じょうん、1897(明治30)年のきょう76歳を以て本所の居に逝かれた。儒者、医者、本草学者、外交家そしてまた最も心事の高潔な士人であった。幕府の奥詰医師の職にのぼったが、頭の時流を抜いていた翁は泰西文物の輸入に意を注ぎ、頑迷な御匙法師岡檪仙院おかれきせんいんのために斥けられ、蝦夷移住を命ぜられた。しかも翁はそれにしょげず、却って北海開拓の機会を得たことを喜んだ。幕末多事の時に当って召されて中央の政局に参し、衰亡に瀕した幕政を振起せしめんとした。四十六歳にしてフランスに派せられ、その間に大政奉還。かねて東亜の野心を抱いたナポレオン三世より「仏国は声援を幕府に貸そう」と言われ、しかし「内事に外援を借るは大いに不可だ。讐亡びて、国もまた亡ぶであろう。なすべきではない」と断乎として斥けたという。
 明治十一年のこの日また、三代にわたっての労作「江戸名所図会」二十巻等を上梓した斎藤月岑げっしん、七十五歳で歿す。
2014-03-11 10:48 | カテゴリ:未分類
 天気よし。
 北陸新幹線に関する要望活動を菅官房長官に行う。議会決議文を手にした議長、議連会長と一緒に。加藤官房副長官にも会う。長谷川補佐官にも総理に伝えていただくように要請。福井関係の藤田さん。
 そのあと、ぶら下がり取材あり。
 増田事務次官(午前)、髙木副大臣(午後)。
 一時から山崎先生に要請(参議院議長室)。
 三時ごろ好天だった空から突然に小雪舞い、福井に戻ったような錯覚を味わう。やがてすぐ止む。
 若干の待時間あり東京駅周辺のKITTE(キッテ)、東京駅構内の食品街、レストランなど所長と一緒に見学。客多し。
 小松空港の手前まで雲に遭うが、機が降り始めると日本海沖はやや紅色を帯びて春の気配あり、気持ちやわらぐ。
 帰ってから「こっち雪が降ったのよ」「東京も三時ごろ降った」「あらぁ」


 深井志道軒しどうけん、1766(明和3)年のきょう84歳を以て没。容貌醜く、顔はれ鍋の如く、口は欠けたる盃の如し。その上に傴僂で身の丈中人に及ばない。日々観音様の境内に出て軍談を講ずるに、弁舌流るるが如く、その間に戯言を交えて、人をして絶倒せしめるが、聴客に僧と女がいると罵ること甚しい。得たところの金はすべてその晩の内に、酒にかえて飲んでしまう。平賀鳩渓きゅうけい(源内)は言った。「されば江戸に二人の名物あり、市川海老蔵とこの志道軒おやぢ也」と。彼のはきとした出見は不詳と記す。
2014-03-11 10:52 | カテゴリ:未分類
 朝、庭全体が薄く白になっており、夜中に降雪があったのであろう。梅はかなり花の白いものも見られ(一見して20輪ほどか)、多くの紅の蕾、うっすら枝の上側に積もった白雪とが一緒になって、美しい姿である。昼の11時ごろ、しきりにぼたん雪となってまた降る(桜田門風である)。昨日のこと「直談判」と地元紙に出ている。
 市長来訪。民主党県連第15回定期大会。海江田代表が雪で遅れておられるようだ。部長らが急に要望の打合せに待っている。
 女性団体の会に出席し、20分ほど最初講演する。
 ふくいピュアライオンズクラブの結成15周年の記念式典に祝辞。会員30名余。女性の未婚率、県外流出大への対策。また幸福度No1は女性活躍によることを述べる。


 建部たてべ清庵せいあん、1782(天明2)年のきょう71歳を以て没。奥州一関の田村侯の侍医、オランダ流と称する外科医を専業とした。しかし当時オランダ流というのは、実は蘭医の著述でなく、医事を知らぬ通辞を通して聞いた療法を書き集め、それに漢医の説をこね交ぜた、怪し気な書に依ったので、すこぶる頼りないものだった。清庵自身も中年以後、久しくその本業に疑いを抱いていた。門人の衣関きぬどめ甫軒ほけんという人が江戸へ修業に出るのに手紙を書いて託し、オランダ医学に就いて、自分の疑問を解いてくれる人を求めた。
 甫軒、その人を尋ねること三年、ついに清庵と玄白とを結びつけた。玄白の丁寧親切を極めた答書を得て、二十年来の疑問を一時に氷解した清庵の喜びは、更に譬うるに物がなかった。その書をば繰り返し読むこと数カ月、旧痾は喜びのために、ほとんど癒えんとしたほどだった。
2014-03-11 10:55 | カテゴリ:未分類
 朝、にわかに粉雪がふるいにかかった様に落ち来て、地上はみる間に白くなる。しかし、雪雲のうしろに天日の形が透いて見える。
 九頭竜川の合流のところ、深緑色の漣、まわりの雪の白と対照的。
 空が明るくなって日が照り出しそうになる。
 九時からの三里浜特産農協(村上理事長)の通常総会に出席する(坂井市臨海体育館)。ござ1枚の上に坐して、ストーブがその中にいくつか置かれている。女性出席者が多い総会であり(1/4ほどか)、多くは後席におられる。体育館の窓から日が射して来る。
 帰り路に市長と斉藤議員、広瀬市議と「道の駅」を見学する。野菜や加工品など数多く、とくにハンペンが人気、何人かの行列あり。レストランはまだ客がなく、喫茶雑談。切りラッキョウの天ぷらを知る。
 通り路、市園芸センター(串野)をはじめて見る。江上の北のところで農水路掘りの人たちの姿あり。
 十一時ころから一時すぎまで午報を耳にしながら、暖かくて雲の出ない間に急いで今年初めての春耕(5~6畝の幅を)。
 予報のとおり四時ごろ、すっかり暗くなり30分ほど風雨、しかしまた五時ごろには空が明るくなる。
 夜静かながら家のきしむ音がする。雨戸をしめにゆくと、灯に照らされて雪が落ちるのが見え、庭がまっ白になっている。


 相州小田原の城主で老中の首座にあった大久保忠真ただざねが、1837(天保8)年のきょう57歳を以て江戸の邸に卒した。江戸末期に於ける名君の一人であった。「名君」などという言葉に片づけてしまいたくないほど立派な「人」であった。召されて幕閣に列なった。時に水野越前守、将軍家斉の寵を頼んで権を振い、幕府の諸老以下みなその下風についた。忠真謹虚自ら持し、みだりに鋒鋩ほうぼうを現さなかったが、しかもその中毅然たる節を有した。越前守卒して忠真首輔となった。賢俊を薦め、不肖を汰し、倹素を尚び、奢侈をしりぞけ、満腹の経綸日を期して行われようとした。そして何事ぞこの時に当って篤疾を得た。間宮林蔵、忠真の訃報に接し、水戸の藤田東湖に向って、「小田原侯が逝かれた。わしはもう仕事は出来なくなった」といったという。
2014-03-13 09:59 | カテゴリ:未分類
 朝は銀世界、しかしすぐに日が射す。9時前には淡雪残る風景にかわる。
 きのう告示の辞職出直し大阪市長選、あすの東日本大震災3周年の記事(朝刊)。
 部長会議。
 昼ごろ猛烈に吹雪く。
 政策合意の進捗報告をうける。農業・農村基本計画、食育・地産地消計画について。


 本多上野介正純まさずみ、1637(寛永14)年のきょう73歳を以て配所に没。若くして家康に仕え寵遇ちょうぐう日に厚く、父の佐渡守と共に殆ど機密の政策という政策には与らぬはなく、幕府の基をかためるに功が多かった。それだけ端からは悪く見られた。佐渡守はさすがに保全の道を心得て、わずか二万石の小禄で終ったのに、上野介は俄に十五万石(宇都宮)の大身となり、そのために身の破滅を招いたなどともいわれるが、決して貧慾の人ではなかった。醇儒室鳩巣なども、「佐渡守は、智謀は深いがいやな人だ、正純は父に似ぬ人だ、上野介殿こそまことの忠臣だ」と述べている。
2014-03-13 10:01 | カテゴリ:未分類
 けさも、こな雪がうすく積もっている。昨日ほど(8cm)ではないが。通勤時間にはこの季節らしい朝日がさして来る。しかし車の時間がかかる。
 福商JETSがチアダンス(インターナショナル部門)で二連覇(朝刊)、万能細胞(STAP)論文取下げか(〃)。
 番組収録をし、セブン(予算)、元気通信(恐竜)。
 福井の教育のDVD出来、大学入試の結果について、かこさんの絵本寄贈について。
 福井県文化賞・功労賞・奨励賞の表彰式(国際交流会館)。
 障害者スポーツ協議会について。(2時46分、黙祷)。
 13知事NW、ドイツ製車両、アジア原子力会議について。企業子宝率、学び直しについて。
 座ぶとん集会(明新ハンドベルクワイア)。ハンドベルは8名全員の協力がいる。ソバのクレープ(ハム入り、ローズジャム)を食す。明新公民館は街はずれにあり、玄関を出ると田圃の向こうに家や車の光の列。


 武田勝頼かつより、1582(天正10)年のきょう織田氏に敗られて天目山で悲壮な死を遂げた。勝頼三十七歳、夫人十九歳、子信勝十六歳、最後を共にした。父祖以来武を近隣に振った武田の家もここに滅ぶ。彼は決して豚犬ではなかったが、ただ武勇あまりあって思慮に足らず、父信玄の政治外交の手腕を欠いていた。それに相手が、煮ても焼いても喰えない家康と信長だったのは、彼にとって最も大きな不幸だった(と銑三は記す)。
2014-03-17 09:47 | カテゴリ:未分類
 一日好天。
 グッドジョブについて、特別交付税(町分)について。
 あすの予算委員会の打合せ。
 王立ブータン大学生・教員の25名が来訪(外務省の青少年交流事業として)。学生に感想を投げかけると、福井がブータンと似ていると言う。今日はとくに天気がよく、この会議室の窓外の東方に雪の山が光っているので、とくにそう感じたのかも。こちらとしてはドチュラ峠の東ヒマラヤの連山を想い出す。全員が日本は初めてと挙手をした。昨日の東京での感想はといえば、機械で何でも動き(ドアなどか)びっくりとのこと。先方からの土産に、ダーツの矢のようなものや、農具のミニチュアなど。


 徳川中期の名君中の名君、鷹山ようざん上杉治憲はるのり(はるのり)公が1822(文政5)年のきょう72歳を以て薨ぜられた。温かい愛情のあったと同時に、自ら率いること厳正に、千万人といえどもわれ往かんの強い意気を持った、柔剛両方面の最も完全に調和された模範的な人格者であった。公いわく、「献上物は、軽い物に却ってしおらしい誠がある。下々同士の贈物もこうありたい。よい品を受けてうれしくないことはないが、贅尽し美を尽した品などは、贈られた心遣いが思われて、このあいさつにはどうしようと思い、それが心に懸かって安からぬ。それよりは手作りですとか、きのう釣りましたとかいって、畑の物や魚の二三疋も贈られたのは、その人の真意を思い遣られ、こちらの気も痛まない」。味わうべき言ではないか(と銑三記す)。童門冬二「上杉鷹山」(集英社)が読みかけのままだ。
2014-03-18 09:33 | カテゴリ:未分類
 雨、ぼちぼち春雨のはしりでもないか。中央公園の雪吊り撤去の写真が、朝刊に出る(県民福井)。島根県知事から電話あり。
 予算特別委員会。質問の中でトヨタのベアが、19年振りにアップし(組合員平均2,700円)、一時金も引上げ(5か月に1.8か月分プラス、年約39万円)の話題あり。
 規制委員会が川内(鹿児島)の再稼働を進める方向を出したとのこと。ぶらさがり取材あり。県内の大飯等については、安全確保のためさまざまな課題をしっかりクリアして、本格的な稼働に備えるべき、と述べる。
 明日の委員会打合せで、九時過ぎになる。


 江戸中期の大儒、伊藤仁斎先生、1705年(宝永2年)のきのう、七十九歳で亡くなった(1627-1705年)。京都堀川の塾(古義堂)に古学を教授、門弟三千。長子は東涯とうがい、次子は梅宇ばいう、第五子は蘭嵎らんぐう、いずれも博学の儒学者。
 森銑三の偉人暦では、「仁斎という人を思うと、一日でも二日でもじっとその傍に坐っていたかったような気持がする。」そして「ものやはらかに愛想よく謙退深く、まことに君子とはかやうの人なるべしと覚えた」という、或る学者の印象記を引く。
2014-03-18 09:37 | カテゴリ:未分類
 雨、くもり。庭の梅がぽつぽつと咲きだして実に美しい(三分咲きほどか)。
 予算特別委員会、4議員(山本文、細川、野田、斉藤の各氏)。予算案可決(林業公社改革も)。午後の委員会については、国の放射性廃棄物WG(実質最終回)に出席のため、石塚副知事の欠席を認められる。
 議長ブロック議長会の決議などで来室さる。会議所専務来訪。
 めでたさも何もなかりしホワイトディ。


 豊後聖人の称のあった三浦梅園ばいえんが1789(寛政元)年のきょう67歳を以て没。子供の頃から天地自然の裡に疑問を抱き、独学で天文学を研鑽し、後には十二も歳下の麻田剛立ごうりゅうについて問うところがあった。そして彼の困学(苦労して学ぶ-季氏篇)の結果は、彼一家の条理学となり、「げん語」「ぜい語」「かん語」の大著述となった。「玄語」一部八冊二十八篇は、三十一歳の着手から五十三歳にして完成するまで、年を閲する二十三、旧稿全部を棄てたこと三回、稿本を書き換えたのは、前後を通じて二十三回に及んだ。
 梅園は学の人であると同時に徳の人であり、天資純正にして温厚、施しを好み、進んで人の急に赴き、難を救った。その村や隣村で争論のあった時、梅園が一度口を入れれば直に和合したという。
2014-03-18 09:40 | カテゴリ:未分類
 朝から目がかゆい。好天。STAP細胞についての論文に重大な過誤の記事(朝刊)。
 福井新聞の上階の窓からは、SC(満杯で一見3000台だそうである)、九頭竜川の早春の枯色の堤防、周りの田野などが一望。
 津村節子さんと三十分ほど、五十嵐氏、伊藤部長といっしょに懇談する。来春開館の文学館の特別館長のお礼など。吉村先生との三陸海岸(田野畑村)のことなど。
 津村先生を囲む昼食会。吉田社長、和智氏、増永委員長、幕の内ちらし寿し弁当。
 第17回「ふくい風花随筆文学賞」の授賞式。武生商業校の生徒の受賞多い。障がいをテーマにしたもの多い。一般・高校生の受賞作品について、先生の今年も又くわしい講評。「しゃべりすぎですか」。若い作家が育つにはどうする。あこがれていた永平寺を昨日拝観した(群馬の受賞者のあいさつで)。会場での茶話会で津村さんのご長女に初めてお会いする。
 30分ほど時間があり県美術館に「棟方志功展」を鑑賞する。13県ネットワークの青森県との連携の成果であり、立派な作品を多く出展協力してもらい、来客もすこぶる盛況である。志功作品に強い「生命力」を感じる。併行開催の小野忠弘展もみる。一階のアマチュアの絵画教室の作品も見学する(小原氏ら)。
 四時から、福井フェニックス・ライオンズの三十周年記念式典に祝辞。アイバンク、スヌーズレン・ルーム(聞きなれぬ言葉)への寄贈などあり。
 日がずいぶん伸びて、夕日が大名町のところで、五時過ぎはビルの上にやや懸かろうとする高さ。
 色紙を7組書く。


 医者で畸人伝中の人、北山寿安じゅあんが1701(元禄14)年のきょう大阪に没、享年は解らない。母は長崎丸山の遊女で、父は支那人であった。帰化僧の化林けりん独立どくりゅうなどに医を学び、少壮大阪に出て開業し、一躍流行医となった。列侯から禄を厚うして召されようとしたけれど、断って就かない。そして医療のかたわら諸生を教育して多くの医書を著した。人となり剛直、思ったままをずばずばいう。少しも顧慮するところがない。人々はおどろいて、直な人だとも、時には気違いだともいった。そして寿安自身は、何といわれようが平気なものだった。治療をするのに、金持だというと謝礼を思い切って取る。貧乏人には、薬ばかりか、米銭をも施してやる。それ故玄関ははやっても、手元は不自由勝だった。そしてそんなことはもとより意としなかったという。
2014-03-18 09:42 | カテゴリ:未分類
 くもり、午後は短時間の小雨、そのあとは又くもり。
 朝刊(読売)に、京都大が次期学長を国際公募する方針と一面トップに出ている。8日不明となったマレーシア機が、交信装置を故意に遮断され、ハイジャックの可能性ありとナジブ首相(同)。冬季のパラリンピックは思ったより長期間あるようだ、もう十日近くになるのではないか。
 ビワの木を鉢に移植する。じゃがいも種を埋める畝を二本つくる。
 この二、三週、行事や議会関係の仕事が多く又年度末の用務もあり。休みがとれなかったが今日はゆっくりできて一息つく。
 「本よみうり堂」に、三浦しをん(作家)が「ビタミンBOOK」の連載に、よく解らないのに理系の本を好んで・・・ふがふが読むのが趣味とし、マーシャ・ガッセン「完全なる証明」(文春文庫)をとりあげている。


 松平伊豆守信綱のぶつな、1662(寛文2)年のきょう67歳を以て没。生前から智恵伊豆の称があった。そして彼の才智に富んでいたことを証する逸話は数々伝えられている。しかし伊豆守の伊豆守たる所以は、さような頓智や頓才にあるのではなかった。四代家綱が幼少の身で将軍職に就いた時、酒井忠勝(1587-1662年 小浜城主)は元老を以て補佐したが、齢が傾いたからとて致仕を願い出ても許されない。「天下のために枉げて留まれ」との御諚であった。忠勝ハッと平伏して、「わが君にはさまでに天下を大切と思召さるるか」と感涙に咽ぶと、幼将軍は「いや伊豆が留めよと勧めるのじゃ」と正直に打ち明けておしまいになった。
 目上の者の職を去るを待って、自分がその跡を襲いたいと願うのは世間一般の俗情、それを上をすかし奉っても、忠勝の留任を謀ったところに信綱の真面目はある(と銑三記す)。
2014-03-25 10:03 | カテゴリ:未分類
 好天。
 昼から福井大学において、メディカルシミュレーション・センター開設記念式典に出る。県が全額4億円を基金から支援。式典は入口のテントのところ、福大は外のテントでの行事が多い。そのあと施設見学。スウェーデン製という血管手術の装置、ドイツ人の営業担当者が説明、放射被曝、内視鏡検査、エコー検査、幼児モニターなど、患者の肉声なども出てリアル感あり。
 そして後、医学部奨学生9人(3~5年)との懇談、義務年限内に留学してもよいかなどの質問。今回の参加者は内科の希望者多い。山口医学部長と意見交換。
 現代名工について、北陸・近畿産業競争力会議について。
 郷右近(陸自鯖江駐屯地)司令が転任あいさつ。この3年間で4回目の異動とのこと(古河市へ)。
 昼は、かやくうどん。
 昼、外に出ていたせいなのか、ほんかくの花粉症。


 川路かわじ聖謨としあきら、1868(明治元)年のきょう、錦旗東上して江戸城すでに献ぜらると聞くや、大いに庸人(凡庸な人物)の事を誤るを慎り、自裁して逝いた、行年七十二。
 徳川末期に於ける幕吏中の先覚者であり、天下の名士であった。初め普請役から身を起し、世にいわゆる仙石せんごく騒動(出石藩お家乗取りの陰謀)を断じてその名を挙げ、累遷して勘定奉行となり、外交のことに携ってしばしば外国使節と折衝した。その後、俗吏の掣肘を受けて、思うに任せず、職を辞して閑居。
 嘗て江戸に遊んで聖謨を訪うた横井小楠は、「その人その名を聞くこと久し、果して非常の人物なり」と日記の中に書いている。聖謨、好学の念に厚く、毎日登城の途中を、駕籠中に於て読書した。
2014-03-25 10:12 | カテゴリ:未分類
 小雨。
 横田夫妻、モンゴルで孫らと対面。クリミアの住民投票、ロシア編入が多数。(朝刊)
 原子力防災計画について。
 教育委員との意見交換会(今後の職業教育)。
 大学進学指導対策、授業改善などについて。
 県特別交付税について。
 「おもしろ環境実験隊」と座ぶとん集会(鯖江市文化の館)。いろいろ面白い実験を100近く持って、子供たちにボランティアでサイエンス授業。振動によって木の風車をまわす。


 深見重左衛門じゅうざえもん、1730(享保15)年のきょう90歳を以て没。三河武士の裔。弱きを助け強きをくじき、人の危難を見て赴き救わずということがない。老年に至っても朱鞘の大脇差を手離さず。寛文年間江戸の男達おとこだての頭と立てられて大いに民衆のために気を吐いた。当時権勢飛ぶ鳥も落す下馬将軍酒井雅楽頭うたのかみ(大老)の家臣六人と闘って、四人を傷つけ自分も斃れた。すでにして息を吹きかえしたが、「敵一人斃さずに、かえって傷を負わされた。どの面さげて人と会おう」とその場で刀を執って、すんでに腹へ突き立てようとする。友の寺西閑心かんしんは「その傷の癒えるのを待って、もう一度彼奴等と仕合しろ」と、道傍に立札して、「重左衛門は蘇った。手傷が癒えた今一度勝負を仕直そう」と墨黒々と書きつけた。武士の天下が、ようやく平民の手に移ろうとする頃の時代相を語るものとして、この挿話エピソードは面白い(と銑三記す)。
2014-03-25 10:24 | カテゴリ:未分類
 はれ。
 露、条約を調印しクリミア編入。おおい町長選告示。地価公示、三県で差、本県下げ止まり、住宅地で二ヶ所上昇。(以上朝刊)。
 第4回アジア原子力人材育成会議(敦賀総合研修センター)であいさつ。
 グッドジョブ賞授与式。
 県政記者昼食会(伊豆倉・福井、岩切・共同、林・中日の諸君)。
 2月議会の最終日、予算、議案が無事に通過。今日は和服の女性議員お二人、手話の傍聴者多し。
 花粉症(?)で診療所、待合室に十人あまり、カゼ流行か。
 退職者異動を一部示す。
 議会との県政懇談会(フジタ)。


 菅麟嶼りんしょ、1735(享保20)年のきょう24歳にして疱瘡を病んで没。幕府の侍医の子、生れついて慧しく、六つの歳にもう仮名交りの本を読み、和歌を作った。七歳で四書五経の句読を父に受け、父喜んで荻生徂徠に就て学ばせる。才学群を超え、歳こそ至らざれ、ほとんど老成の如くであった。幕府儒官の室鳩巣は、麟嶼を以て「天下第一の才子」となし、幕府の儒員に取り立て二百石の禄を賜わる。時に十三歳、今ならばまだ尋常小学の五六年、中学にもはいっていない歳である。人並勝れて頭のよかった彼は、人並に外れた虚弱な体質であったらしい。十歳余りにして異常な発達を示しながら、ついにその大成を見ずにしまったのである。子あり、山田図南となん
2014-03-25 10:28 | カテゴリ:未分類
 雨。朝登庁後、上京。
 小林教授と政策対談。国立美術館の加茂川館長、小松弥生理事と面談。展示絵画を一部見学、美術の教科書で昔みたような作品あり(南風、エロシェンコ像など)。国立西洋美術館の馬渕館長(女性)、渡辺主任研究員、幸福シニア・キュレイターと会う。レンブラントの版画に使われた和紙と越前和紙との同定を石川氏らと。日本橋室町に海生堂オープン。
 妹尾堅一郎(一橋大学客員教授)との政策対談。製造業側からの六次農業化の考え、さらに消費者側からのアプローチもありと説明。
2014-03-25 10:30 | カテゴリ:未分類
 晴れ、風邪。
2014-03-25 10:37 | カテゴリ:未分類
 晴れ、携電とマスクだらけの人ごみぞ。めでたさもちふくらいなりさくらたい。
 ANA便はなぜか国際便のB777機体、機内誌も座席もアテンダントも。
 10時ごろの夜空、きょうは美しい星座が広がっている。しかし、もう真冬のものではない。何の星がどういう位置にあるのかわからない。


 岡田野水やすい、1743(寛保3)年のきょう86歳を以て没。芭蕉の門下で「冬の日」、「春の日」、「曠野」諸集の作者の一人。名古屋の大和町に呉服商を営んだ目見え町人であった。名古屋の惣町代となり、老衰の故を以て退役するまで、その職にあること十七年に及んだ。歌を梅月堂宣阿せんあに学び、また茶を好み、千宗左そうさに従って奥義を究め、名古屋に千家の茶道を弘めた率先者。芭蕉の句につけた脇、「誰そやとばしる笠の山茶花」。(連句を切り離すのはよからずながら)
2014-03-25 10:40 | カテゴリ:未分類
 好天。
 午前の十一時半ころツバメが一羽、北から南に向けて、ぐいぐい胸をはって波をうちながら上昇する姿をみる。「初燕」。数日前に雪吊りがとれたのか、今日はもう縄は枝木についていない。風なく木々はゆれていない。新聞を読むとセンバツ野球が始まったことを知る。きのうがもう二日目だ。
 9時から福井市農業協同組合通常総代会(福井市農協)。山田会長が経営委員会長、五連会長を辞意の表明あり。当方、挨拶において言及とお礼。
 松田氏の叙勲祝賀会。出席者多し三百名ほど。
 彼岸はあす明けるらしい。いよいよ日が伸びている。
 おおい町長選挙、名田庄の中塚議長当選(11時ごろ祝意)。


 越前藩の文学清田せいた儋叟たんそうが1785(天明5)年のきょう67歳を以て没。越前侯に仕えて京から福井に至った時、その地では武士が雪の日に外出する折には、従僕に長柄の大雨傘を指しかけさせて行くのが風習であったが、儋叟の僕は京都からつれて行ったので、風のために時々傘を奪われてしまう。儋叟自身が普通の傘をさして出ても、ややもすれば風に吹き倒されようとし、衣服を汚してしまう。それでしまいには、遠く行く時は草鞋ばきで蓑笠を着けて出た。見る者が笑うと「冠服を脱して隠れた者は古すでにあった。蓑笠を着て仕える者はわしを以て始めとするであろう」と言ったという。(風雪の日の傘はむずかしかったのであろうか)
2014-03-26 09:48 | カテゴリ:未分類
 好天。昨晩の星はあまりはっきり見えず。
 浦和対清水の無観客試合あり、大阪市長選23.5%最低投票率(朝刊)、(観客不在)対(プレーヤー不在)。きょうまでお彼岸。
 部長会議。
 福井大学の学位授与式(フェニックス)。昨年より学科をまとめて時間が短くなる。
 県防災会議(正庁)。
 教科別の授業改善について説明受く。
 内示。


 安藤野雁ぬかり、1867(慶応3)年のきょう58歳を以て没。徳川末期の歌人で、万葉の研究家、大著「万葉集新考」三十巻を完成。奇人というよりも気違いじみていたほどの人であった。野雁を万葉風にヌカリと読ませて、「おれは名のようにぬかっている」といっていた。いつもぼろぼろの着物を着、縄の帯をしめ、きまって草履を履いて歩いた。晩年の彼を世話した家の人の話には、野雁に歌を見てもらうには呼吸があって、それがなかなかむずかしい。しらふの時に見せると、ほめてばかりいるし、酔うてからだと頭ごなしにくさす。少しばかり酒の廻った時頼むと、よく見て親切に直してくれたという。
2014-03-28 09:55 | カテゴリ:未分類
 くもり。
 県大学位授与式。ぼくら位の年齢の方が二人博士論文。終って食堂で学長、両副学長、出席の池上名誉教授と懇談。研究しているアラレガコの食が出る。
 松下和雄社長(オーディオテクニカ)が蓄音機寄贈のため来訪。実際うれしいことに使えて、懐かしい音をきく。あやうくスイス人のものになるのを、幸い松下さんのお父さんが手に入れられたとのこと。
 記者会見、人事・組織改革。
 小林広幸社長(小林化工)来訪し、ジェネリック業績好調を背景に、最新鋭の工場拡張を表明される。
 谷藤労働局長退任あいさつ。森田看護専門学校長が退職あいさつ。萩森司令(陸自鯖江駐屯地)着任あいさつ、スーダンに一年間勤務したとのこと。


 江戸の国学者―むしろ考証学者―小山田与清ともきよが1847(弘化4)年のきょう神田川の辺の居に六十五年の安らかな生涯を終った。江戸時代を通じての蔵書家を数えるなら、屋代やしろ弘賢ひろかたの五万巻に、与清の同じく五万巻を両横綱に挙げねばなるまい。しかも彼はいわゆる蔵書家、蒐集家ではなかった。学者にも稀に見る好書家であり、読書家であった。
 彼の書くものには、孫引の一節もないのを誇りとした。半公開的文庫の書庫擁書楼の蔵書を自由に引き出し得るために、自ら考案して、色分にしたいろは順のカード目録を作り、更にそれを清書して、「群書捜索目録」というを編成した。ある事項に就いて知りたい時、その目録に依れば、それが何の書の何巻何葉目にあるか、一目瞭然たらしめる仕組みであった。これは今の図書館の書名のみしか索引し得られない目録より、更に一歩を進めたものといわれようか(と銑三記す)。
2014-03-28 10:06 | カテゴリ:未分類
 一日雨ふり。
 県外からの派遣教員(6名)離任あいさつ。茨城(2人)、長野、佐賀、熊本(2人)。茨城の先生が福井は空が面白いと言う。雲がわいてきたり夕焼けがきれいだと。福井では教科書をよみそこねる生徒がいない。
 第2回北陸産業競争力協議会(オークスカナルパークH富山)。谷本知事に祝意。1時間余りで時間少なし。帰途、総曲輪のイベント広場を眺めて帰る。
 部局送別会。家の内外、転勤の季節である。
 永年にわたり一日3回放送しつづけてきた「気象通報」が、今月末から一回(午後4時)だけ放送になると放送(10時20分の放送で)。


 本因坊の第四代、道策どうさくが1703(元禄16)年のきょう没。少年の頃から生れながらの奇材で、時の名人渋川算知さんちと二十番の手合せしてこれに勝ち、幕府の碁所に任ぜられ、古今の名人と称された。同時代に同じく碁の名手とされた察元さつげんというがあった。道策と囲むに一勝一敗、その優劣を見ることができない。しかし、碁盤を四個合せて、それを一面として囲む時には、何遍やろうと察元は一局も勝つことが出来なかった。一面ならば眼力が行き届いても、四面全体には行き渡り得ないのであった。道策と察元とは、技にそれだけの差があったという。
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