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2014-06-02 09:52 | カテゴリ:未分類
 番組収録(元気通信)ガン対策について。
 部長会議。
 県農政連総会に出る(農業会館)。
 厚生労働大臣の特別表彰伝達式(民生委員、児童委員)。労働委員会委員の辞令交付式。
 昼の後半に上京する。東京は夜7時すぎに雨ポツリとして、その後雨降り。



 新時代の文明政治家であった木戸孝允については今更多くいう必要を認めない。1877(明治10)年のきょう、43歳で世を去った。十歳から上の西郷、大久保と共に維新の三傑と称せられる。折から西南の乱の最中で、西郷等の官位褫奪かんいちだつの報を聞き、彼は西郷の人物を惜しみ、その忠実寡欲果断を賞し、暴挙を人生の大遺憾と痛嘆し、最後の病床に、「西郷は大抵にせぬか」と譫言うわごとまでいって瞑目した。彼もまた西郷に劣らぬ至誠純忠の士であった(と銑三記す)。
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2014-06-02 09:56 | カテゴリ:未分類
 朝は雨が止んでおり、一日くもりの天気。
 10時半から北陸新幹線建設促進大会と総会(ニューオータニ)。
 昼から新幹線の要請を行う。山本財務省政務官、高市政調会長、野田総務会長。公明党の井上幹事長と漆原国対委員長。太田国交大臣、髙木・野上両副大臣。3年短縮に意欲的に述べられる。ぶら下がり取材あり。
 終ってから、明日の新幹線PTの説明の資料の調整。
 高円宮典子さま結婚内定。



 堀秀政、1590(天正18)年のきょう、小田原攻囲中に病没した。享年38歳。秀政左衛門督となり越前三十九万八百石に封ぜられ、北荘にいた。ある時のこと城下に立札して、秀政の過失三十余箇条を数え立てた者があった。秀政立札をつらつら読み、改めて袴をはき、手水嗽いしてかの札を押し戴き、「天のわれを諫め給うか、この札はわが家の宝ぞ」と、大いに領内に仁政を敷いた。世の人挙って感嘆して、名人左衛門と渾名したという。
 秀政は器量人だった。その声望は秀吉の諸将に超絶していた。秀吉も彼の将来に大いに嘱目するところがあったのに、惜しい哉、天、歳を仮さなかった。徳富蘇峰はもし彼が今二十年生き延びたら、豊臣氏の末期は恐らく違った経路を取ったであろうといっている。
2014-06-02 11:14 | カテゴリ:未分類
 くもり。
 早朝8時から自治体病院議員連盟の総会。細田会長、森幹事長、谷事務局長ら国会議員の委員に要請。
 全国自治体病院開設者協議会の理事会と総会を午前と午後をはさんで行う。小生の会長再任、高松市長(新副会長)。相馬市長、筑後市長、魚沼市長、小平市長、対馬市長、近江八幡市長、鶴田町長らと寸談。福井との縁や関係あるところ多し。
 谷内安全保障局長との面談。
 与党整備新幹線建設促進PTのヒアリングに出席。北海道、長崎知事と一緒に。福井県だけは昨年12月で一度要請をしている。国交省鉄道局長は国費を削減したいような感じを我々に与える。
 労働省医政局の課長、担当者に病院改善の要望と意見交換。邊見会長らと。また県立病院の村北院長も初めて参加。
 帰便機に江守商事社長と隣席、交談。
 西の夜空に星が三つあり、この季節なのになぜか鮮かである。今日の昼には、気温が30℃程度まで上がったらしい。



 会津の田中正玄まさはる、1672(寛文12)年のきょう、病を獲て即日没した。享年六十歳。彼は保科正之の臣、十五歳にして侯の近習となり、諱の一字をいただいて正玄と名乗り、深く信任されて、ついに国老の首班に至り、四千石を賜った。性方直にして無私、寛宏にして事理に通じ、まことに得難き良臣であった。
 正玄常に曰く、「わしは学問も浅く、聖賢の道は及び難いが、君を正し、士をなつけ、民をあわれむ――この三つを本として公正に事に当ったら、大きな過ちもないであろうかと思っとる」と。以て彼が治世の用意を見るべきであった(と銑三記す)。
2014-06-02 11:15 | カテゴリ:未分類
 午前中にもう26℃、暑い。しばらく天気がつづく感じ。
 田の苗は5、6センチに伸び、ピンと立ちはじめ、麦の方は今週あたりが刈り入れ期か。
 樋村氏による献穀田の田植式に出席(越前町小倉)。御宅で記念撮影。柿や棗の木あり。もっとも山際に近い高台の田で行う。しかし長靴が泥でとらえられる。お田植の泥つきたるも面白し。
 昼から車での表示は32℃になる(やや高く出るか)。
 商工会連合会の総会に出る。ヨーロッパの個人経営の話しする。
 体育協会理事会・評議員会に出る(教育研究所)。会長(小生)、副会長の二年間の選任。開会前、吉田副会長(新任)と教育談。あいさつで各競技国体との意見交換を。
 江丙坤会長を団長とする台湾三三会が来訪。会談をしたあと台湾・北陸企業交流会(国際交流会館)に出る。あいさつする代表団の戦前に習われた日本語は美しい。台湾では各選挙区が最小の一定数はもつ。出生率は日本よりも低く、働きに来たベトナムや中国の女性と台湾男性の通婚が進んでいる。シンガポールの軍務訓練を台湾が受けもっている。子弟の英語教育も熱心である。吉川英治の小説と三国志(中文)を用いて、一年間で旧制高校受験の中国語を習得したという話をきく(83歳の鄭氏)。
 夜7時でも、快晴の夜空には青味が残っている。
2014-06-03 09:36 | カテゴリ:未分類
 日朝、拉致再調査で29日合意(朝刊)。
 中高一貫教育のシステムについて、国体選手確保について。
 九頭竜川地域農と水の振興ビジョンについて、市場志向を記す必要(シェア、コストなど)。
 揖斐地裁所長の退任あいさつ。
 一票の格差論について。
 ふるさと創造プロジェクトの市町での進捗について。
 観光新戦略プランについて。前計画のテーマの総括と追加テーマ。
 北信越県議会議員野球大会の交流会にあいさつ。あすは好天すぎるらしい。
 夕方の空も晴れわたっており、景色、今日は昨日よりもさらに夕空がいつまでも美しい青味を帯びている。



 徂徠派の儒者太宰春台、1747(延享4)年のきょう、68歳を以て歿す。春台、斯文しぶん(儒教のこと)を以て己が任となし、自信甚確く、先が王侯貴人でも、己を枉げてまみえることを求めなかった。その識見は徂徠を過ぐるものがあるといわれるが、拵え上げたという感じが伴っている。人間があまりに偏屈すぎたのは惜しむべきだった(と銑三記す)。
 そしてきちんとしたことが好きで、朝は六つ(6時)すぎに起き、羽箒で机を掃って本を読む。夜は必ず四つ(10時)に寝る。その間にちゃんと日課が定まっていた。書物に誤りを見出すと、一点一画の微に至るまで、必ず訂正したというやや窮屈なひとであった。
2014-06-03 09:48 | カテゴリ:未分類
 猛暑、この初夏始まって以来の強い暑さである。家人は暑いとうなって、今宵からもう肌掛けフトンにする、という。
 第29回北信越ゲートボール大会の開会式に出る(越前町ホッケー場)。会長は松井県議。勝山左義長がアトラクション、肌の白い女性が多く、日に焼ける。
 今庄宿の若狭屋に立ち寄る。改築が加えられ来客数も増え、元気である。ちょうど4人のメンバーが出入、2人の幼児も。パンが人気とか。コーヒーを一杯いただき雑談。
 北陸新幹線の新北陸トンネルの工事安全祈願に出る(奥野々)。式典中にウグイスの強い声とどく。帰るときモルタルで固めたトンネルの入口を眺める。旧国鉄の今庄・敦賀間のトンネル銘板について仲倉県議と立談。
 昼はすこし観光の勉強す。
 夕方畑に行き、イチゴをとる。絹サヤは育って豆になりがちのもの多し、煮物向きになる。キュウリが腰折れになるのを、ネットに掛けて背を伸す。瓜が広がりはじめたので、向ってゆく先のブロッコリを二株抜く。晩飯に本当に絹サヤと油揚げの煮物が出てきた。
 夏ぶとんになる。



 明治の畸人である増田甲斎こうさい、1885(明治18)年のきょう瞑目。磊落豪放、武術に達した掛川藩の侍だった。ペリー来航の二年前、露国の船長と知り、勧められるままに飄々として露国に渡航した(それ以前の話として、脱藩、博奕打の親分、入獄、仏門などの遍歴あり)。何年かいる内にすっかり露語に通じ、国人のために尊敬されて外交官に加えられ、幕府の使節が露国に到った時には、接伴掛となって斡旋した。その後、岩倉大使とともに露国を辞す。
 帰朝後、芝の山内に小室を営み、仕官を勧められても応ぜず、履歴を問われても答えなかった。ただ念仏三昧の老人として余世を過した。
2014-06-07 10:07 | カテゴリ:未分類
 朝7時半すぎに家を出る。敦賀湾は暑いのでもやっている。三方町あるいは野木あたりでは、地区運動会をしている。クリーン作戦の人たちの姿もみえる。イベントが重なり人の集まりによい日ではないか。
 第4回「みどりと花の県民運動大会」に出る(うみんぴあ大飯)。中学生のブラバン、フォーチュン・ダンス、さまざまな表彰、緑の少年団の誓い。
 雲ひとつない猛暑であり、山間ではなく海岸であり風吹かず暑い。漁協女性、名田庄の木の実のグループ、研磨炭達人、寄せ植えのテントなどあり。汗をふく田中議員らとしばらく廻る。西教君を見かける。
 次は敦賀での「海湖と歴史の若狭路」キャンペーン記念シンポジウム(きらめきみなと館)に出る。「若狭さとうみハイウェイ」の名称応募表彰。じゃらん・リサーチセンター長の沢登次彦さんの講演の冒頭をきく。出口で小牧氏に会う。
 くたびれて昼寝をする(車中でも)。
 暗くなりつつある時刻にトウキビの床を耕して、肥料をまく(・・・・ところで終る)。美しい細い三日月が星を一つ従えて、濃青の西空にあり。



 林鳳岡ほうこう、1732(享保17)年のきょう、89歳を以て卒す。彼は羅山の孫、林家の第三代であった。はじめ頭を円めて法印春常と称したが、後髪を蓄えて大学頭信篤といった。五代将軍綱吉に仕えて大いに信任を得、聖堂を経営し、時に枢機に与る。六代七代の将軍の代には白石に圧せられたが、吉宗の代に至って再び重用せられ、林家は鳳岡に至って大いに興った。
 かの赤穂義士の復仇後、鳳岡は大いに同情を義士に寄せ、宥恕論を唱えて、法政論者の徂徠と議論を上下した。鳳岡の意見は容れられず、義士一同死を賜うや、鳳岡憤慨に堪えず、挽歌を賦して一同を弔った。
 また仁慈の義人、生田国秀いくたくにほ、1837(天保8)年のこの日、37歳にて柏崎で憤死。
2014-06-09 12:01 | カテゴリ:未分類
 晴れ。拉致問題の日朝合意(5月29日)をうけ、先方の来日要請(朝刊)。
 部長会議。提案要望について、具体に要望して成果を挙げるものが何かだ。
 古澤さん(褒章)、竹下さん(叙勲)がお礼。小川女性防火クラブ連絡協議会会長の褒章報告。
 檜垣第八管区海上保安本部長の着任あいさつ。
 廊下の窓に大小の家守がはりついている。



 尾形光琳と乾山と尊重すべき此兄弟の芸術家は、年こそ変れ、同じ日に没している。兄光琳は1716(享保元)年、弟乾山は1743(寛保3)年。享年は光琳59歳、乾山は81歳であった。
 二人は京の人、徳川初期の偉大なる芸術家たる光悦の本阿弥家とは親戚合だった。兄光琳は光悦に学び、更に俵屋宗達に学び、その外にも土佐派の画風を研鑽し、ついに画を以て立った。弟の乾山は陶器を作った。釉法を光悦に学び、また仁清に学び、別に新意を出した。光琳の絵画、乾山の陶器、今は世界的の芸術品となっている。
 この日、英雄児であった織田信長と大寧馨児ねいけいじ(神童のこと)の蘭丸、1582(天正10)年n、49歳と17歳にて本能寺の猛火に死す。
2014-06-09 12:08 | カテゴリ:未分類
 晴れあつい。うすい雲あり。あつい。22歳の松山選手がPGAに初勝利(朝刊)。
 粟野地区(市の3分の1の人口)の区長ら交番移設の要望、石川、糀谷県議同行される。
 田端理事長(信用保証協会)が就任あいさつ。
 各市町の教育長と初めての意見交換会(6階大会議室)。教員の授業力、英語教育について。
 経済新戦略について。企業の農業参入、林業戦略、水産戦略について打合せ。
 6時から越前三国鳶隊と「座ぶとん集会」(嶺北三国消防署)。三国の鳶は消防団員から構成、福井市は鳶職によるもの。マトイは持つとかなり重いものであり、腰にくる。つづく人が少ない。
 坂井平野は麦をまだ刈っておらず、暗やみに麦畑の色を路傍にかすかに感じる。
 アメリカの小学生には、show and tellという各自が珍しいものを学校に持って行き説明する宿題がある(ラジオの英語番組から)。



 吉備楽の祖岸本芳秀、1890(明治23)年のきょう、七十歳を以て歿した。
 十一の歳、藩侯は彼を挙げて楽人とした。けだし異数であった、しかもその母、わが子が小成に安んでしまおうことを恐れて、僕をつけて京都へ上せ、安部その他の諸家について学ばした。篳篥ひちりき、笙、笛ことごとくその秘蘊を極め、かねて謡曲俗曲にも通じ、ついに吉備楽を創作した。
 翁、容貌魁梧、性格酒脱、常に奢りを悪み、綿服に弊履で、平気で縉紳しんしんの門に出入りした。行止にも坐臥にも、口に譜を誦することを絶たない。人との話は、いつも楽のことに限られていたという。
2014-06-09 12:12 | カテゴリ:未分類
 くもり、後半、雨降りの予報が残念ながら当らず。
 6月議会の予算以外の議案について(半島の道路、法人課税の条例改正など)。
 避難時間シミュレーションについて、実際的な計算を。
 日本における商品等の調達、マスコットの名前づけ、県民歌の新曲など。
 命のビザで救われた金融先物の創始者レオ・メラメド氏が訪日、来敦する計画あり。
 野路会長(政策アドバイザー)との意見交換会。モノではなく技術開発段階のレベルを公的支援(とくに若い学生、大学に)。農業・林業の分野で、着手できるものから機械化やIT開発を。公部門の苦手な原価計算の習慣を(コスト低下)。企業や国官庁機能の分散がきわめて重要。
 昨年の人口動態について(出生、結婚など)。人口減少。
 畑は苺はほとんど終りということである。ずいぶん何度も収穫した。



 田安宗武、1875(明治8)年のきょう、57歳を以て薨ぜられた。卿は八代将軍吉宗の第三子、楽翁公松平定信には父君に当る方だ。学問の志深く、和歌を荷田在満かだのありまろに、また賀茂真淵に学ばれた。その詠、雄勁にして清新、はじめ新古今の風であったのが、のち真淵が万葉の古風を伝えて純万葉調となり、作歌の手腕むしろ真淵の上にある。もとより『古今集』を一歩も出ない楽翁公の比ではない。正岡子規はその歌を推称。
2014-06-12 09:23 | カテゴリ:未分類
 朝、軒下のコンクリートに小雨があった跡あり。畑の作物のために喜ぶ。
 北陸労働金庫(馬場副理事長)と県産材利用推進に関する金利措置の協定締結。
 財務企画課の職員と、図書を利用して意見交換。ぼちぼち基本となる書物がいる。
 森安所長(福井村田製作所)就任あいさつ。注文を申し上げる。
 第一回の観光新戦略策定委員会。その前に、委員諸氏と昼食懇談。関東地域は福井への観光意欲と実績に大きなギャップ(20%)、20~30歳は意欲が低いので恐竜を生かせる可能性あり等の談。なお、イメージリーダー(誘客コンテンツ)をどうするか、そして満足コンテンツは何か。
 委員会の場では、デンマーク国がレストラン「ノーマ」をプロデュースし東京(M.オリエンタルHで)で宣伝する紹介あり、単価4.9万円、35歳までの料理人の育成要か。短期と中期の施策を混同せずに、中期視点として福井旅行は「幸せ」探しをテーマとしては(シェアではなく需要をつくれ、人にスポットを)。
 県中小企業団体中央会の懇親会に出る(繊協ビル)。
 とうとう昼から雨がはっきり降るも、夕方には雲の間に夕焼けがあらわれて雨上る。調子にのって夕暮れの畑に行ったら、雨がまたぼつぼつと落ちはじめる。胡瓜が十本以上とれる。家人が大急ぎで晴れ間に玉葱を収穫したようだ。夕方、北陸も梅雨に入ったとニュースが言ったという。



 宮部鼎蔵ていぞう(ていぞう)と吉田稔麿としまろ、1864(元治元)年のきょう、会津桑名両藩の士と新撰組の猛者七十余人による池田屋への乱入によって命を落す。
 宮部は肥後熊本の人、医者の子に生れて医者になるを好まず、山鹿流の兵法を学び、諸国を歴遊して豪傑の士と交わり、後に国事に奔走して図るところが多かった。嘗て東北行を共にした吉田松陰は、鼎蔵を評して、「懇篤こんとくにして剛毅」といい、その忠孝信義を賞している。
 吉田は長州藩士、松陰の松下村塾の駿足だった。幕府と長州との軋轢を融和するために尽瘁した。松陰は「人の駕御がぎょを受けざる高等なる人物」といっている。
2014-06-12 09:32 | カテゴリ:未分類
 くもり。今日はノルマンジー上陸70周年の日(Dデー)である。
 新聞では、三方の梅が収穫期である。庭の梅も大きく丸くなっている。去年は20日頃に収穫したようだが。
 岡田社長(UACJ)が来訪。アルミの世界No3。
 高齢者叙勲・叙位叙勲の伝達式。同行の瀬尾元教育委員と会う。また紺綬褒章の伝達。
 福井市の新しい今村議長・堀川副議長が就任あいさつ。
 髙部所長(福井地方・家庭裁判所)の新任来庁。
 天川名誉教授(横浜国立大学)と面談。福滋の職員が意見交換に対して助言者。
 福井赤十字病院との意見交換会に出る。
 暗くなるのがきわめて遅い。



 尾藩藩学の明倫堂教授の鈴木あきら、1837(天保8)年のきょう、74歳を以て没した。ずいぶん気のさくい、物にかかわらぬ人であった。あるとき、吉原の某楼に行き見学だけをして、百文を包んで帰ったというような話し。朖は名古屋に於ける本居学の巨擘であった。ことに語学の研究に於て重きをなした。しかも彼は宣長に就く前に、すでに漢字で一家をなしていた。なおその前には医学も修めた。それだけ彼は方面が広く、趣味が広く、蘭学に対しても正しい見解を持っていた。
2014-06-18 10:09 | カテゴリ:未分類
 くもり。大野街道(8号線高架の手前)の道端の畑に枇杷の実が黄色くなりつつある。
 越前市北町きたちょう(上嶋区長)にある三社神社にゆく。周りの田は半分ほど麦が刈られたところ、苗はもう4、5寸の伸び。この社は明治初期に水問題を解決された三先人、17代藩主の松平茂昭もちあき公、郡宰の鈴木準道のりみち、用水掛の徳山五太夫に地元村人が感謝し創建されたもの。その150周年の記念祭に出る(実行委員長上嶋氏)。20代当主の松平宗紀夫妻はじめ、両家のご子孫が出席。当方、感謝の辞とともに新幹線の用地買収への理解方を願う。
 鈴木教授(東京大学大学院)との意見交換。
 「ふくい園芸カレッジ」の開校式に出る(あわら市の井江葭いえよし)。時間待ちの間にミディトマトとメロンが出て、県議、あわら市長らと食しながら雑談。式には研修生が六十名ほど出席。終ってから「まちかど県政」の収録。帰路2時半近くにフロントガラスに雨滴がつきはじめる。ややむし暑い。
 「ふくいブドウ・ネットワーク」の会員諸氏と「座ぶとん集会」を行う(春江中公民館)。県民はブドウをまあまあ食べるが、その分量だけ地元で作られていないとのこと。販売先の確保やハウスでの減農薬が課題か。また、指導拠点が美浜の問題(?)。



 明治の聖人と呼ばれた敬宇先生、中村正直、1891(明治24)年のきょう60歳にして逝かれている。幼にして神童の称があり、十歳で昌平こうの素読試験、しかも長ずるにつれて凡骨に終るような世間並の神童ではなかった。
 死ぬまで知識慾の旺盛であった敬宇は、最も時間を尊重され、「光陰を適当に用いればわが実有のものとなり、しからざれば空間のものとなる」と常に諸弟を警めらる。翻訳上梓された「西国立志編」は当代のベストセラー。
2014-06-18 10:12 | カテゴリ:未分類
 梅実採る折を思案の主従かな
 松ケ鼻にある頭首工改修工事と日野川用水発電所の完成記念式典に出る。美濃理事長と式辞。山崎議長出席。ボタンを押して実際の発電(140kw)のセレモニー。現場の用水堰や魚道の円錐堰を見るなど、会館から外に出ると日が照って暑い。戦前に掘ったという古い用水隧道を見学し感慨あり、かつ姿のよい一木が水路の石垣の辺にあり。
 玄関前に作ったテントの下で、地場の料理で祝いをかねたふさわしい昼食(こぶ、油あげ、にしめ、こぶ巻、イモ・エビ天、ゼンマイのヌタ、赤豆入りの五目ズシ、モチなど)。
 ライオンズクラブ国際協会の334複合地区の第60回年次大会に出る。煙を吐いたりテープが降ったり、すこぶるセレモニアスである。記念の御寄付200万円を受け、里山里海湖研究所の子供用のボート、用具などに当てる予定。
 3時ごろから一票の格差論について勉強する。
 夕刻、岡田大野市長が無投票で当選さる(三選)。
 畑のスイカに糸を張る。絹サヤは急に黄色く衰えてほとんど寿命なり。イチゴも最終。瓜畑にワラを敷き、伸び先の障害となるブロッコリーやパンジーを抜く。カブの跡を耕すうちに、暗くなり曇ってくる。初めて本格的に手を蚊にさされる。夜に色紙をかくことになる。
2014-06-20 13:23 | カテゴリ:未分類
 晴れ、ないし曇り。朝刊は休刊。
 部長会議。
 中高一貫の募集と試験の内容について。
 河和田(椿坂)地区の老人クラブが県庁見学。漆器の木地は栃、欅など、注文がいま多いとのこと。
 企業の農業参入、農と水の振興ビジョンについて。越のルビーも栽培方法によって味の上下あり。食してみて普通のミニトマトが一番うまいのも不思議。昼はお餅とキツネうどん。
 アイシン・エイ・ダブリュ工業の河田前社長、大林新社長のあいさつ。
 雑誌インタビュー(旅行読売)の神崎常務と話す。
 お堀の水が青く満々としている。
 県経営者協会定時総会に出る。
 発電所近傍からの避難時間について。
 上京する。東京は橋の上で夕立ち、夜は雨がち、雷も鳴る。
 夜のTVをみていると、12日からWCと騒いでいる。



 帰化人の陣元贇げんぴん、1671(寛文11)年のきょう、85歳を以て没した。元贇は明の虎林県の人、乱を避けて日本に来り、尾張の藩祖である義直侯に仕えて寵遇された。学問、人格はやや遅れて帰化した朱舜水とは同日に談すべくもないが、彼は百技に長じたといわれる。わが国に拳法を伝えて起倒流柔術の祖とされ、茶を好み自分で土をこねて陶器を造った。いわゆる元贇焼のこと。その外、菓子の製法まで伝えた。これもまた元贇焼という。
2014-06-20 13:25 | カテゴリ:未分類
 くもり、朝は雨上り、梅雨空。昼から晴れ気味になる。
 NHK朝イチに「英検キッズ」の報道、小一年の女子が英検2級、子供部屋にドラえもんなど英語本1500冊。
 小川亘社長(近畿日本ツーリスト)との政策会議(秋葉原の本社)、恐竜博物館にナイトステイをと。
 北陸新幹線に関する要請を、笹岡議長・山本議連会長・山崎経営者協会長と一緒に行う。麻生財務大臣に工期3年以上短縮について説明、異論を格別に示されず。名阪リニアが先行することはありえない旨も言われる。其前に髙木国交副大臣。与党PTメンバーの井上座長代理、漆原議員にも。
 夜8時頃、帰舎。



 蘭医の緒方洪庵、1863(文久3)年のきょう、54歳を以て没した。洪庵は備中足守藩の人。体が弱かったところから医を志し、江戸に上って蘭書を学んだ。洪庵二十八歳にして大阪に開業し、且つ私塾を起して諸生を教授した。「その門からは、橋本左内や大村益次郎、福沢諭吉が出た」と銑三記すように、左内は適塾では筆頭の名士であった。緒方塾は名実共に当時における全国第一の蘭学塾だった。洪庵の講義は緻密で放胆と、福沢は回顧している。
2014-06-20 13:35 | カテゴリ:未分類
 くもり、夜になって雨音がする。梅実を月曜日にもいだらしい、ダンボール一箱。
 スピードアップ補助金。
 駐日スロベニア共和国ヘレーナ・ゾルコ大使が来訪。フォトコンテストを実施する今立(粟田部)の案内で三度目の来福とか。
 中国名古屋総領事の葛廣彪夫妻が着任あいさつ。
 廃炉・新電源レポートについて、足羽川ダム着工、戸口トンネル、舞若道完成の広域イベントについて、野外恐竜博物館行きのバスなど。
 白の夾竹桃それに青いアジサイが、週末から緑道に咲き出した(今朝は車中からみる)。



 土井聱牙ごうが、1877(明治10)年のきょう、64歳を以て没した。伊勢の津藩の文学、嘗て斎藤拙堂に学び、また文章に名があった。その名遠近に鳴り、四方の学生の笈を負うて来り学ぶ者が多かった。弟子達を教えるのに、ただ多く読めという。そしてその好きな方面にぐんぐん才能を伸ばさせて、少しも抑制しなかった。いわゆる画一的教育ではなかったのだ。どんなに欠点の多い青年であろうと取り、その瑕を棄てて、長処を認めようとした。そこに彼の人物の大きさがあった。
2014-06-25 08:32 | カテゴリ:未分類
 曇り、退庁するころにはすでに雨が落ちている。
 ふるさと納税の進化について。
 「豊大学」(福井市)35名との記念撮影。
 中野シロウ氏来訪、17市町をイメージした新キャラクター作成のため、全市町の現場へ。
 後藤収審議官(資源エネルギー庁)が来訪。
 山里口御門の整備について。
 北陸新幹線に関する県議会との意見交換を行う。フリーゲイジの扱いについて。
 夕方、畑へゆく。胡瓜が大きさを超えているものふくめ10本ほど。図書館に憲法の本をみる、どの書も一本調子である。



 小早川隆景、1597(慶長2)年のきょう、65歳にして逝いた。深断謀慮、父元就に類して、しかも父の奸黠がなかった。兄元春の猛気は欠いたが、沈勇があった。秀吉も常に隆景を重んじた。誠実で、謹慎で、寛洪で、物事を計るには実に頼もしい相談相手だった。
 隆景の言に「人に意見して、すぐに請け合う者にその意見を保つ者がない。一問答も二問答もして得心が入ってからはじめて尤もと請ける者は、その意見を用いる者だ」と。
2014-06-25 08:45 | カテゴリ:未分類
 早朝、雨跡あり。曇りだが、畑へゆくと雨が落ちて来る。瓜や西瓜の葉ツルがよく伸びている。
 提案理由について。包括外部監査の対象について。記者会見の準備について。
 森田「九頭竜大学」(27名)との記念撮影。
 「ふるさと学びの森」のオープンについて。
 県庁退職者連盟の通常総会懇親会に出る。家人もどる。



 竹中半兵衛重治、1579(天正7)年のきょう、歳わずか36歳にして秀吉の中国役の陣中に卒した。秀吉の左右にあること凡そ十年、その懐刀として黒田官兵衛と両翼となって、その覇業をなさしめた。智者であり、軍に臨んでも猛り立つようなことはなく、沈着な態度は、士卒をして自ら意を安んぜしめるものがあった。
 重治曰く「分に過ぎた価の馬など買うものではない。馬が気になって思い切った働きが出来ぬ。十両で馬を買おうとするなら、五両のを買っておくがよい。惜し気もなく飛び下り、乗り放ち、時には捨ててもいい。そしてまた五両で新たに買うのだ。馬に限らずこの心得あるべきなり」と。私達も聴いておいていい訓言だ(と銑三記す)。
2014-06-25 08:49 | カテゴリ:未分類
 うす雲ないし晴れ。
 ハーモニーホールの近くの今市を通る。道路の直線化工事中、また音楽堂にGSが隣接して工事中、アンバランス。
 県民スポーツ祭の総合開会式に出る(鯖江市体育館)。飛行士のパフォーマンスなどあり、入場行進もバラエティにとむ。
 武生の北町あたりを経由して、今立八ッ杉の峠をこえて池田町へ。板垣トンネルを出たところで古い空屋など見える。盆地に入ると空は夏空でなっており、陽が強い。
 足羽川ダム事業の鍬入れ式に出る(能楽の里文化交流会館)。その前に、冠荘で意見交換。町長、国会議員諸氏らと談。町おこし(こっぽい屋、英語教室)、鮎解禁、ブータンの話題など。
 帰路の足羽川沿道の景色――池田の谷口、美山の河原町付近に釣人数人ずつ見ゆ。
 その後市内に戻る。再び国会議員に対し来年度予算や事業について要望。意見交換を活発に行う。新幹線、原子力エネルギー特区、広域観光、ふるさと納税など。



 書を以て江戸に鳴った沢田東江、1796(寛政8)年のきょう、65歳を以て歿した。彼は江戸っ子で下町の商家の子であり、大変な美男子であった。書法を受け、更に自ら研鑽し、二王(王羲之、王献之のこと)を奉崇して別に一家を成した。別に経学もあり、詩文も出来た。
 気前がよくって施与を好んだ。人に泣きつかれると意を傾けて救ってやる。食客が常に何十人といて、家はこれがために貧しかったとあるが、本人は念頭に掛けず、「有無相通じ衆寡相均しきは天の道だ」といった(と銑三記す)。
2014-06-25 08:53 | カテゴリ:未分類
 晴天、暑い。
 自民党の政経文化セミナーに出席。山崎議長とあいさつ。その前に、石破幹事長に対し、新幹線の3年以上短縮、エネルギー特区指定、法人税減税(地方にシフト)を要望。新藤総務大臣に特区、ふるさと納税の改正を。田村厚生労働大臣には公立病院について。
 昨朝7時前のコウノトリ2羽の誕生をうけ、白山地区の観察センターに行く。沢山のスタッフが神経をつかい、画像などをモニターしながら対応。ヒナが破った卵をみる。玄関先で写真をとる間、日差しがきつい。現場は見学者はいない。
 ボダイ樹は満開。銀モクセイ、幹がほとんど皮だけの珍しい紅梅木(双方ともらしい)、サルスベリなどあり。若葉づくの灰青色の若鳥が枝にじっとしている。一週間ほど前にセンダンの花は散ったらしい。根のところに幼木が育っている(これまで若木が育ったことがないらしい)。住職夫妻、子息が掃除をしている。前面に青い日野山、すぐ前に耕運機の音。
 夜9時ちょっと前に畑から戻ってくると、家近くにホトトギスの鳴くを、つづけて二度ほど遠声できく。音の静かな夜だからかと思って喜んだが、すぐ不粋な蛙がなき始める。まだ空は西の方が心持ち青味がかっているように感じる。



 俳人で、歌人で、国学者であった北村季吟、1710(宝永7)年のきょう、88歳を以て逝いた。山城の粟田口に生れ、下京烏丸の新玉津島しんたまつしま神社の祠官であったが、元禄2年、66歳のとき、五代将軍に召されて江戸に下り、歌学方となり、法印に叙せられた。
季吟はその生涯を殆ど註釈に捧げ、『源氏物語湖月抄』、『枕草子春曙抄』以下五十部の著書の大部分は古書の注釈だ。その著には同時代の契沖のような、天才的な創見はないけれど、彼は註釈において不朽といえる(銑三記す)。
2014-06-25 09:04 | カテゴリ:未分類
 朝は晴れ、すぐ薄ぐもり、暑くなりそうだ。
 部長会議。
 献穀粟の播種式(越前市大屋町)の坂野氏農園で、自宅には行かず。会場には日の丸、クラシックな風景である。近くを8号線遠くに北陸道、村国山と岩内山との間にあり巾は1㎞ほど。かつてはこの間を日野川が流れていたということ。すぐ西隣が新幹線南越駅である。帰りに美濃さんと現場水路を見る。
 2時から記者会見をする。舞若開通キャンペーン、恐竜野外博物館。
 株式会社「和郷」の高浜町への進出にかかる木内社長の来訪。ミディトマトが竹籠中にあり、白くて野趣味あり。数ヶ月もつ無菌レタスあり。
 提案理由打合せ。
 県観光連盟交流会(ユアーズホテル)。



 河村瑞賢、1699(元禄12)年のきょう、82歳を以て歿した。伊勢に生れ、十三で江戸に飛び出し、車力人足の労働者から身を起して、江戸でも指折りの一代分限となり、功に依って旗下に取り立てられた。奇利を博し、奇功を遂げた逸話は頗る多い。明暦の振袖火事にわが家の焼けるのも構わず木曾へ駆けつけ、材木を一手に買い占めて大儲けをする話は名高く、山師の称はこの時から起ったとされる。また常に言った「人というものは、普段は心を小さく持ち、いざとなったら、うんと大きく張るようにしなくてはならぬ…」
 瑞賢、日頃書生を愛し、書物を多く貯えて読ませており、新井白石も彼の蔵書を借りて読んだ一人であった。
2014-06-26 08:56 | カテゴリ:未分類
 くもり。桂宮殿下斂葬の儀、弔旗掲揚。
 台湾の李嘉進会長(亜東関係協会)が来県され、会談する。終戦直前に同氏のお母さん(現在90才)が春江の織物工場で仕事をされた。会談の席で戦前の大雪の除雪風景の写真を持って来られ、母を指される。当方から戦前の春江や福井の写真を記念に贈る。その後坪金織物を見学とのこと。代表者と経済界と昼食会(いたや)。
 希望学と人口問題について、自衛隊のヘリコプター・サイトについて。
 夕刻から県政報告(ユアーズホテル)。



 備後福山十万石の城主、老中の首位にあった阿部伊勢守正弘が、1857(安政4)年のきょう、歳まだ39歳で卒した。弘化年中にわずか25歳で老中に挙げられてから、大政の局に当ること十五年、将軍家慶の信任を受けた。人あるいは彼が八面玲瓏れいろう過ぎて、重みが足らず、押しがきかなかったともいう。しかし、四十にも充たぬ若さで天下の重望を荷い、嘉永から安政へかけて、困難な外交問題の衝に当って、誠心誠意国家のために尽瘁じんすいした。
 はじめ、鎖国説を固守したのが、時勢の変遷により開国の止むべからざることを豁然として悟るや、異論を排して条約を結び、泰西の文物を採用し、洋学を起し、様式の海陸軍を創始した。その眼識の高さを仰がざるを得ない(と銑三記す)。
2014-06-26 08:59 | カテゴリ:未分類
 「集団的自衛権」を与党協議の場に提示(朝刊)。15日にワールドカップ1対2でコートジボアールに敗れ、スポーツ記事は盛り上らず。
 6月議会開会。笹岡議長が辞任され、田村議長、松田副議長が選出。
 提案理由が自然に長目になる、工事の完成やイベント、新計画の策定などが多いためか。
 明日の原子力小委員会について打合せ。
 5時ごろ県庁を出て上京。くもっていると同時にモヤっていて、いかにも梅雨空である。
 飛行機は、雲が三層に重なり合いよく揺れて熱いものが出ない。



 赤穂義士の一人で参謀長であった小野寺十内秀和の妻丹女たんじょ、1703(元禄16)年のきょう没した。其性風雅に和歌の嗜みあり。和歌文章に秀で義士の中でも出色の文才家であった十内とは琴瑟きんしつ相和して、揃いも揃うた一対の好夫婦であった。
 本望は達し、夫は細川家にお預けとなった。おりおり夫から密々の消息に、丹女が贈った一首が堀内伝右衛門の覚書にある。秀和の死後、心ばかりの法事も営み、それぞれに家事も処理した上、彼女は食を絶つこと数日にして身まかった。
 辞世「つまや子の待つらんものを急がまし何かこの世に思ひおくべき」
2014-06-26 09:06 | カテゴリ:未分類
 晴れ。
 朝8時30分から、総合資源エネルギー調査会の原子力小委員会の初会合に出席する。委員多く、発言調整が大変である。
 終って帰福、3時頃から県庁で代表質問の打合せ。



 尾張の深田香実こうじつ、1850(嘉永3)年のきょう、78歳で没した。深田氏、世々業を墜さず八世二百余年、維新にまで至っためずらしい家であった。その代々で最も名声を振ったのが六世香実である。漢学以外にも国学にも通じ和歌も多く詠んだ。「人となり温順にして道を信ずること極めて厚く、好んで人の善を称揚し、悪を聞けば則ち言はず、人皆欽慕し、客常に門に盈つ」とは、その門下だった細野要斎の記するところ。「稽徳編」、「尾張志」、「天保会記」などの著。学術以外にも立派な人格者だった。
2014-06-26 09:13 | カテゴリ:未分類
 曇り。
 代表質問、吉田議員、糀谷議員。人口減少対策など。国体のめざす順位について急に再質問あり。
 七市の商工会議所会頭会議に出席し、懇談(福井商工会議所)。嶺南嶺北の一体化の状況で、互に聞いたことのない地域ことば。
 終っても外は明るい。地球は太陽から最も遠のき、日の長さが伸びるのも終りとなる。
 NHK、11時から「白熱教室」ローレンス・クラウス教授の「宇宙」。空間・時間・物質のまず入門。宇宙の物差し10nの1026から10-26の世界。なぜか人間は100ないし101という大きさの真中に自分を見ている。



 徳川中興の名主と称えらるる八代将軍吉宗、1751(宝暦元)年のきょう、薨じた。歳は68であった。俗に「堅い人」ということをいう。吉宗は、いわゆるこの「堅人」であった。保守主義の一点張りで、やや衰えかけた幕府の運命を持ち直した。
 吉宗の言に、「困った時にうつ向く者は役に立たぬ。困った時あお向く者が役に立つ」と。
2014-06-26 09:25 | カテゴリ:未分類
 くもり、暑い。2時すぎに急に夕立ちがあり直ぐ止みあとは曇り。夕方ポツリとだけする。
 朝刊、昨日のWカップはギリシャと零引分け、決勝進出は絶望的。
 ひる後半、畑に出る。跡に残った最後の絹サヤ数株をとりのぞき(なおサヤがかなり付いている)、カブの列跡も耕し、畝を2本作る。後日のオクラと枝豆用。トマトはまだ青いがカラスが食べた実があり、鳥除けの糸を張る。西瓜は大きいのも玉子大のものも、沢山できている。座ぶとんを敷く。



 徂徠門で春台と並ぶ学者であった京生れの服部南郭、1759(宝暦9)年のきょう、77歳を以て江戸に没した。南郭は消極的で、自分自身でも「とかく人を引き立てて学問さするというような先生もあるが、わしは引っこみ思案ゆえ、才を育てることも得せず、ままにしておきます」などと言っている。南郭は芸術家肌の風流人であったのだ。そして人柄が温藉で上品で、芸苑の士の愛慕せざるはなかったという。
 「海国兵談」の林子平、1793(寛政5)年、この日幽囚の中に没。
2014-06-27 09:05 | カテゴリ:未分類
 朝は雨、日中あがる。夜、ほそい雨がぱらぱらする。
 ふくいきらめきフェスティバル(嚮陽会館)。女性活躍の団体、個人の表彰。田村新議長が就任4日目と挨拶。
 サンドームの近くの白壁の民家、大木の栗の白い花が垂れる。
 組合消防45周年記念鯖江・丹生消防大会記念式典に出る(サンドーム隣のスポーツ交流館)。ほとんど表彰関係。
 一度もどる。昼は明るい空、この季節独特の愛すべき涼しい風が廊下を渡る。
 3時に若狭に向う。美浜インターもうつながっており、まちがって進入しないよう交通整理人おり。
 5時から県医学会(吉井実行委員長)の総会の懇親会に出る(やまね)。
 日が長いので帰りも途中まで明るい。満開の白の夾竹桃あり。嶺南の山々に低くうすい雲がかかり南画風。



 洛西嵯峨の素封角倉素庵そあん、1632(寛永9)年のきょう、62歳にして没した。彼は豪傑角倉了以の子、そしてまた父に劣らぬ傑物であった。父を助けて、大堰川、富士川その他の水利を治し、父の遺志をついで南洋に船を出し、巨万の富を致し、当時屈指の分限者となった。
 彼は尋常一様の成金者流ではなかった。夙に藤原惺窩について学を修め、和歌を詠じ詩を賦し、光悦に書法を学んで別に一家をなし、当時洛下三筆の一人といわれた。
2014-06-27 09:13 | カテゴリ:未分類
 くもり。朝刊の中に、集団的自衛権の行使容認への反対が半数超えというものあり。
 部長会議。
 一日、一般質問答弁の打合せ。



 賢婦人であった井上通女つうじょ、1738(元文3)年のきょう、79歳を以て没した。通女は、讃岐丸亀藩の土井上儀左衛門の長女、業を父に受けて和漢の字に通じた。自ら処女賦「深閨銘」を作り、婦徳の修養にもつとめた。藩侯の母堂である養生院夫人、通女の才学を聞かれ、江戸に召して侍女とされた。のち国に帰り、婦徳の亀鑑となる。
 詩歌を善くし、文を善くし、かねて書を善くした。その名は白石、鳩巣などの諸名儒の間にも知られた。丸亀藩の老職の聞き書に「通女の如くなる美形は未だ見ず、ありがたき人柄に侍りし」とある。
2014-06-27 09:18 | カテゴリ:未分類
 晴れ。
 一般質問(第一日)は8議員が質疑。テーマは人口減少対策が多い。
 夕方の北の空を7F会議室から眺める、やや夕焼けの空。
 一般質問の答弁打合せを、夜8時ごろまで。鳥獣害、女性の県外流出、原子力の展望、医療介護改革など。



 対馬聖人の称のあった陶山すやま鈍翁、1732(享保17)年のきょう、76歳を以て没した。
 藩主宗家の名臣で奉行職にあった陶山鈍翁は、同僚の平田喬信と図り、意を決して全島の野猪退治という畢生の事業計画を立てた。当時の獣害はひどく、収穫期には畑の周囲に柵を立てて、一晩中声を挙げてそれを守るという有様で、島民の困苦は言語に絶した。時あだかも五代将軍綱吉の治世で、生類憐みの令などいう愚劣極まる政令が発布されていた時。
 全島を9区に分って殲猪し、郷村の生産力を増加したばかりか、対馬の人口までも増加しむるに至った。人間の食物を害する野猪を減すことに依って、人類自身の繁栄を見るに至ったのだ。
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